銭湯や温泉などの温浴スタッフの特典は、仕事終わりに無料でお風呂に入れることだ。それを魅力に感じアルバイトの応募をしていく学生スタッフも少なくはない。わたしの勤務していた店舗は朝10時から平日は深夜1時まで土日祝は深夜2時までの営業時間であり、勤務は早番、遅番と2交代制だった。基本的には家族がある事業責任者のT部長が早番、わたしが閉店業務を伴う遅番を担当していた。当時の業務は過酷であったが、営業終了後に無人のお風呂で寛げることが唯一至福の時間といえた。

 その日も業務を終え、全スタッフが帰宅した後のお風呂で骨を休めていた。同棲していた同じ店舗で勤務する彼女のEも休みの日だった。わたしはいつものように露天風呂にある岩風呂と称された一番広い浴槽に手足を大の字に広げ浮かぶように浸かっていたのだが、これまで感じることがなかった不気味な空気を感じていた。露天風呂はもちろん無人であったが、何か視線を感じてならない。ボイラーを切っているとはいえ、浴槽の湯は体を温めるには問題ない温度なのだが、何故だか寒気が止まらない。 
 居心地の悪さを感じたわたしは、湯船から立ち上がった。その時、浮かんでいると露天風呂の壁に隠れて見えなかった温泉掘削の櫓がふと視界に入った。 恐る恐る壁越しに上半分を覗かせている櫓を見上げていくと、頂上の足場に何か白いものが揺らめいていたのだ。間も無く全身に鳥肌がたった。それは、別のスタッフから事前に聞かされた話とも合致し、自身が夕方に出勤してきた時に見上げた櫓には存在しなかったものであった。その“白い布のようなもの”は洗濯物の洋服が飛んできたにしては大きく、シーツぐらいのサイズがあった。そして、風に揺らめくその光景は、時折白い着物を纏った女性にも見えなくもなかった。
 towels-textile-fabric※イメージ画像
 また、当時岩風呂では季節がわりで全国各地の温泉地を入浴剤で再現するイベントが実施されていて、この日は草津温泉の真っ白なお湯が演出されていた。見えない水底が恐怖を倍増させた。
 完全に恐怖に蝕まれてしまったわたしは逃げるように浴槽から出ようとした。しかし、なぜか浴槽から足が上がらない。白いお湯の中で何かがわたしの足に纏わりついているのだ。それは、まるで死者の国に引きずり込まれるように感じた。混乱するわたしは、両手で右足を思いっきり持ち上げなんとか岩風呂の縁にのせる事に成功した。縁にのる足の指の間には、長い黒髪が何本も纏わりついていた。

 体も洗わずに飛び出し、相棒のボロ自転車に跨がり逃げ帰るわたしが見上げた櫓には女性どころか白い布さえも見当たらなかった。